2015年11月13日金曜日

「死んだ」者よりは「死なれた」者の方が、やはり、叶わないのである・・・

  今回は少々、辛気臭い内容で失礼します。
 

「死」ば他人様のこと・・・自分とは無関係だったのが、
還暦を越えた辺りから自分の事として考える様になりました。

大奥との会話にも「俺が死ん後は・・・」の、言葉が多くなりました。
私の身の回りには見られては困るものだらけ・・・、
身辺整理をと思いますが、悟りの境地とは無縁、邪念親父・・・、
気にはなるのですが、思うだけ・・・身辺整理は一向に進みません。
 
 朝日新聞朝刊の「折々のことば」を毎朝、愛読しています。
 下に11月7日、8日の「ことば」を拝借、どちらも心に深く沁み入ります。
 

      鷲田清一

 
2015年11月7日 秦恒平
「死んだ」者よりは「死なれた」者の方が、やはり、叶(かな)わないのである。つらいのである

 
 英語の自動詞に受動態はないが、日本語には、「死ぬ」という自動詞にも「死なれる」という受動態がある。死ぬ人でなく、死なれる人に思いを重ねるのだ。人は自らの死を恐れるが、その死は想像するだけで体験はついにできない。そのとき自分も消失しているのだから。死の経験の原型はだから、大切な他者を失うというところにある。作家の「死なれて・死なせて」から。
 
2015年11月8日 吉野秀雄
生きのこるわれをいとしみわが髪を撫(な)でて最期(いまは)の息に耐へにき

 
 私が死ぬということは、別の誰かが私に死なれることでもある。ひとはよく死の恐怖と言うが、ほんとうは死ぬほうだって、自分が死んだらあいつはどうなるか、私の代わりにあいつをかまってくれる人がいるかと、遺(のこ)される者を案じて胸がはり裂けそうになっている。遺される者を愛(いと)しむ気持ち、それのほうが自身の死への恐怖よりも切迫している。歌集「寒蟬(かんせん)集」から。

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